1968年 (ちくま新書)

1968年 (ちくま新書)

 一見、奇矯な主張に充ちた本書が「1968」から40年近くを経て書かれた現在、なぜか妙な説得力を持っているのである。
 糸編に圭の字をあてたこの著者の苗字がWeb上でよく「すが」とかな書きになっているのを目にしたが、著作を読んだことはなかった。(ちなみに苗字の=のような記号は組み版活字の世界では「ゲタ」と称して無い文字の代わりに活字の裏側を組んだものの名残り)
 ナルシシズムナショナリズム、規律/訓練するシステム、マネー・キャピタリズム市民社会の組成(エコノミー)など、著者独自の用語を駆使して書かれる本書に例の「珍左翼」を見て、またかよ…と思いつつ読んでいくと、現代史の別の顔が見えてくるようだ。
 「第2章 無党派市民運動と学生革命」では、べ平連に冷戦崩壊前のソ連の「平和共存」路線の影を見て、米兵脱走運動(いわゆるJATEC)の裏に旧日共ソ連派の関与、つまりソ連共産党の影を見ているのである。
 記述はさらに老アナキスト三島由紀夫との関係、太宰治の戦後共産党への再入党など謎を深めていく。
 続く「第3章『華青闘告発』とは何か」で従来の歴史観に変わり70年7・7華青闘告発と呼ばれる事件と一連の流れを「現在までを規定している68年の政治的・思想的な課題の浮上」としている。
 70年安保後の連合赤軍事件と内ゲバの激烈化の流れが反体制運動の退潮、終焉に連なったという一般的な見方をくつがえすやり方だ。連赤、内ゲバを「7・7の不幸な受容」としている。みんなが、もう早く忘れてしまいたいもの、忘れてしまったものに、すがは、まだ別の現代の課題を見ようとしているのだ。