台所でかんがえる

夜中にジャムを煮る

夜中にジャムを煮る

ふと手にした本。新潮社の「考える人」連載という。成程。装丁の良さ。やさしい文章のリズム。

ふつうのひとの、ふつうのつよさ。そこから紡ぎ出されるものが、いつなんどぎつくっても決して変わらない味なのだろう。そのひとの味なのだろう。昭和という時代は、日々のうれしさを杖にして、なんでもないふつうのつよさを鍛えた。
 ただし、とも思い直す。そんなつよいものが奔流のように一本、自分のからだのなかにも流れこんでいるからこそ、私はベトナムやイソドや韓国やタイのさまざまなひとびとの味をせつじつに親しく味わうことができる。あの昭和の台所は、ベトナムの台所にもタイの台所にも、つまりどこの台所にも通じているのだ。
 そろそろ私も巻きずしやいなりずし、ちらしずしをつくりたい。秋が深まる朝、久しぶりに母に電話をかけた。明日こしらえるつもりのちらしずしの其の種類をひとつひとつたしかめながら、思わず口をついて出た。
「やっぱりちらしずし、ずいぶん手間がかかるね」
すかさず母が言ったものだ。
「今日の夜はよく休みなさい。そうしたら、味のことがよくわかるから」
一拍置いて、励ますように母は続けた。
「だいじょうぶ。つくっていると、きっとたのしくなるから」