拳拳服膺しております

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坪内さんの新書とはうって変わって「役に立ちます」。何故括弧書きなのかというと、例えば読書は「趣味」か、と言うと違うだろうと。勿論仕事ではなかろう。「勉強」なら目標があるだろう。立ち止まってそう考えると、この本は「役に立つ」のである。まえがきの一節。

 七〇年代に山田風太郎に出会い、八〇年代に司馬遼太郎藤沢周平などを読んで考えを改めた。文学は「私」なしでも成立するのである。物語もまた文学なのである。そうして、文学を「鑑賞」しなくてもいいという発見は新鮮であった。まさに救いであった。そんな視線で読み直すと、うっとうしいと思われた文学も意外におもしろいのである。
 文学には日本近現代史そのときどきの最先端が表現されている。文学は個人的表現である。と同時に、時代精神の誠実な証言であり必死の記録である。つまり史料である。そう考えたとき、作家たちは私の目にはじめて先達と映じた。

小学校の図書室の棚の前で読みふけった物語もこの書には登場するが、ただ読んでいただけで、長じてオッサンに成り果てた今も小説を読むが、こういう物言いを提示した人はいなかった。

 本など読まずに済めば、それに越したことは無い。うかつでも生きていける世の中なら、うかつな気楽さに身を任せてもみたい。本は、人に考える種を与えて無為の時間を埋めてはくれはするが、人を幸せにするわけではない。
 だが日々の食物のように、つい本を求めてしまう因果な性分もある。そういう人に対しては、むろん強い自戒をこめて、ときに虫干しすべきは本ではない、本よみ自身だろう、といいたかったのである。